2008年11月7日金曜日

「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几《さんきゃくき》に縛《しば》りつけた、書物の一冊を抽《ぬ》いて読んでいた。
「御這入《おはい》りなさい。ちっとも構いません」
 女は遠慮する景色《けしき》もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟《はんえり》の中から、恰好《かっこう》のいい頸《くび》の色が、あざやかに、抽《ぬ》き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開《あ》けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟《りくつ》だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
 余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然《はっきり》しない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。
「好きだか、嫌《きらい》だか自分にも解らないんじゃないですか」
「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の中《うち》を見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女の眸《ひとみ》は少しも動かない。
「ホホホホ解りませんか」
「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「今でも若いつもりですよ。可哀想《かわいそう》に」放した鷹《たか》はまたそれかかる。すこしも油断がならん。
「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。
「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚《ほ》れたの、腫《は》れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」
「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「おやそう。それだから画工《えかき》なんぞになれるんですね」
「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留《とうりゅう》しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」
「すると不人情《ふにんじょう》な惚れ方をするのが画工なんですね」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤《おみくじ》を引くように、ぱっと開《あ》けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」
「話しちゃ駄目です。画《え》だって話にしちゃ一文の価値《ねうち》もなくなるじゃありませんか」
「ホホホそれじゃ読んで下さい」
「英語でですか」
「いいえ日本語で」
「英語を日本語で読むのはつらいな」
「いいじゃありませんか、非人情で」
 これも一興《いっきょう》だろうと思ったから、余は女の乞《こい》に応じて、例の書物をぽつりぽつりと日本語で読み出した。もし世界に非人情な読み方があるとすればまさにこれである。聴《き》く女ももとより非人情で聴いている。
「情《なさ》けの風が女から吹く。声から、眼から、肌《はだえ》から吹く。男に扶《たす》けられて舳《とも》に行く女は、夕暮のヴェニスを眺《なが》むるためか、扶くる男はわが脈《みゃく》に稲妻《いなずま》の血を走らすためか。――非人情だから、いい加減ですよ。ところどころ脱けるかも知れません」
「よござんすとも。御都合次第で、御足《おた》しなすっても構いません」
「女は男とならんで舷《ふなばた》に倚《よ》る。二人の隔《へだた》りは、風に吹かるるリボンの幅よりも狭い。女は男と共にヴェニスに去らばと云う。ヴェニスなるドウジの殿楼《でんろう》は今第二の日没のごとく、薄赤く消えて行く。……」
「ドージとは何です」
「何だって構やしません。昔《むか》しヴェニスを支配した人間の名ですよ。何代つづいたものですかね。その御殿が今でもヴェニスに残ってるんです」
「それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう」
「誰だか、わたしにも分らないんだ。それだから面白いのですよ。今までの関係なんかどうでもいいでさあ。ただあなたとわたしのように、こういっしょにいるところなんで、その場限りで面白味があるでしょう」
「そんなものですかね。何だか船の中のようですね」
「船でも岡でも、かいてある通りでいいんです。なぜと聞き出すと探偵《たんてい》になってしまうです」
「ホホホホじゃ聴きますまい」
「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣《おもむき》がない」
「じゃ非人情の続きを伺いましょう。それから?」
「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹《いちまつ》の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石《とんぼだま》の空のなかに円《まる》き柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高く聳《そび》えたる鐘楼《しゅろう》が沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に覊絏《きせつ》の苦しみを与う。男と女は暗き湾の方《かた》に眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかに揺《ゆら》ぐ海は泡《あわ》を濺《そそ》がず。男は女の手を把《と》る。鳴りやまぬ弦《ゆづる》を握った心地《ここち》である。……」
「あんまり非人情でもないようですね」
「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし厭《いや》なら少々略しましょうか」
「なに私は大丈夫ですよ」
「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく六《む》ずかしくなって来たな。どうも訳し――いや読みにくい」
「読みにくければ、御略《おりゃく》しなさい」
「ええ、いい加減にやりましょう。――この一夜《ひとよ》と女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、幾夜《いくよ》を重ねてこそと云う」
「女が云うんですか、男が云うんですか」
「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める語《ことば》なんです。――真夜中の甲板《かんぱん》に帆綱を枕にして横《よこた》わりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を確《しか》と把《と》りたる瞬時が大濤《おおなみ》のごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、強《し》いられたる結婚の淵《ふち》より、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を閉《と》ずる。――」
「女は?」
「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ様《さま》である。攫《さら》われて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」
「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」
「え?」
 轟《ごう》と音がして山の樹《き》がことごとく鳴る。思わず顔を見合わす途端《とたん》に、机の上の一輪挿《いちりんざし》に活《い》けた、椿《つばき》がふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は、膝《ひざ》を崩《くず》して余の机に靠《よ》りかかる。御互《おたがい》の身躯《からだ》がすれすれに動く。キキーと鋭《する》どい羽摶《はばたき》をして一羽の雉子《きじ》が藪《やぶ》の中から飛び出す。
「雉子が」と余は窓の外を見て云う。
「どこに」と女は崩した、からだを擦寄《すりよ》せる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。細い鼻の穴から出る女の呼吸《いき》が余の髭《ひげ》にさわった。
「非人情ですよ」と女はたちまち坐住居《いずまい》を正しながら屹《きっ》と云う。
「無論」と言下《ごんか》に余は答えた。
 岩の凹《くぼ》みに湛《たた》えた春の水が、驚ろいて、のたりのたりと鈍《ぬる》く揺《うご》いている。地盤の響きに、満泓《まんおう》の波が底から動くのだから、表面が不規則に曲線を描くのみで、砕《くだ》けた部分はどこにもない。円満に動くと云う語があるとすれば、こんな場合に用いられるのだろう。落ちついて影を※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44]《ひた》していた山桜が、水と共に、延びたり縮んだり、曲がったり、くねったりする。しかしどう変化してもやはり明らかに桜の姿を保《たも》っているところが非常に面白い。
「こいつは愉快だ。奇麗《きれい》で、変化があって。こう云う風に動かなくっちゃ面白くない」
「人間もそう云う風にさえ動いていれば、いくら動いても大丈夫ですね」
「非人情でなくっちゃ、こうは動けませんよ」
「ホホホホ大変非人情が御好きだこと」
「あなた、だって嫌《きらい》な方じゃありますまい。昨日《きのう》の振袖《ふりそで》なんか……」と言いかけると、
「何か御褒美《ごほうび》をちょうだい」と女は急に甘《あま》えるように云った。
「なぜです」
「見たいとおっしゃったから、わざわざ、見せて上げたんじゃありませんか」
「わたしがですか」
「山越《やまごえ》をなさった画《え》の先生が、茶店の婆さんにわざわざ御頼みになったそうで御座います」
 余は何と答えてよいやらちょっと挨拶《あいさつ》が出なかった。女はすかさず、
「そんな忘れっぽい人に、いくら実《じつ》をつくしても駄目ですわねえ」と嘲《あざ》けるごとく、恨《うら》むがごとく、また真向《まっこう》から切りつけるがごとく二の矢をついだ。だんだん旗色《はたいろ》がわるくなるが、どこで盛り返したものか、いったん機先を制せられると、なかなか隙《すき》を見出しにくい。
「じゃ昨夕《ゆうべ》の風呂場も、全く御親切からなんですね」と際《きわ》どいところでようやく立て直す。
 女は黙っている。
「どうも済みません。御礼に何を上げましょう」と出来るだけ先へ出て置く。いくら出ても何の利目《ききめ》もなかった。女は何喰わぬ顔で大徹和尚《だいてつおしょう》の額を眺《なが》めている。やがて、
「竹影《ちくえい》払階《かいをはらって》塵不動《ちりうごかず》」
と口のうちで静かに読み了《おわ》って、また余の方へ向き直ったが、急に思い出したように、
「何ですって」
と、わざと大きな声で聞いた。その手は喰わない。
「その坊主にさっき逢《あ》いましたよ」と地震に揺《ゆ》れた池の水のように円満な動き方をして見せる。
「観海寺《かんかいじ》の和尚ですか。肥《ふと》ってるでしょう」
「西洋画で唐紙《からかみ》をかいてくれって、云いましたよ。禅坊さんなんてものは随分|訳《わけ》のわからない事を云いますね」
「それだから、あんなに肥れるんでしょう」
「それから、もう一人若い人に逢いましたよ。……」
「久一《きゅういち》でしょう」
「ええ久一君です」
「よく御存じです事」
「なに久一君だけ知ってるんです。そのほかには何にも知りゃしません。口を聞くのが嫌《きらい》な人ですね」
「なに、遠慮しているんです。まだ小供ですから……」
「小供って、あなたと同じくらいじゃありませんか」
「ホホホホそうですか。あれは私《わたく》しの従弟《いとこ》ですが、今度戦地へ行くので、暇乞《いとまごい》に来たのです」
「ここに留《とま》って、いるんですか」
「いいえ、兄の家《うち》におります」
「じゃ、わざわざ御茶を飲みに来た訳ですね」
「御茶より御白湯《おゆ》の方が好《すき》なんですよ。父がよせばいいのに、呼ぶものですから。麻痺《しびれ》が切れて困ったでしょう。私がおれば中途から帰してやったんですが……」
「あなたはどこへいらしったんです。和尚《おしょう》が聞いていましたぜ、また一人《ひとり》散歩かって」
「ええ鏡の池の方を廻って来ました」
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
「画《え》にかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は近々《きんきん》投げるかも知れません」
 余りに女としては思い切った冗談《じょうだん》だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
 女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧《かえり》みてにこりと笑った。茫然《ぼうぜん》たる事|多時《たじ》。

0 件のコメント: