2008年11月7日金曜日

 鏡が池へ来て見る。観海寺の裏道の、杉の間から谷へ降りて、向うの山へ登らぬうちに、路は二股《ふたまた》に岐《わか》れて、おのずから鏡が池の周囲となる。池の縁《ふち》には熊笹《くまざさ》が多い。ある所は、左右から生《お》い重なって、ほとんど音を立てずには通れない。木の間から見ると、池の水は見えるが、どこで始まって、どこで終るか一応廻った上でないと見当がつかぬ。あるいて見ると存外小さい。三丁ほどよりあるまい。ただ非常に不規則な形《かた》ちで、ところどころに岩が自然のまま水際《みずぎわ》に横《よこた》わっている。縁の高さも、池の形の名状しがたいように、波を打って、色々な起伏を不規則に連《つら》ねている。
 池をめぐりては雑木《ぞうき》が多い。何百本あるか勘定《かんじょう》がし切れぬ。中には、まだ春の芽を吹いておらんのがある。割合に枝の繁《こ》まない所は、依然として、うららかな春の日を受けて、萌《も》え出でた下草《したぐさ》さえある。壺菫《つぼすみれ》の淡き影が、ちらりちらりとその間に見える。
 日本の菫は眠っている感じである。「天来《てんらい》の奇想のように」、と形容した西人《せいじん》の句はとうていあてはまるまい。こう思う途端《とたん》に余の足はとまった。足がとまれば、厭《いや》になるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の民《たみ》を乞食《こじき》と間違えて、掏摸《すり》の親分たる探偵《たんてい》に高い月俸を払う所である。
 余は草を茵《しとね》に太平の尻をそろりと卸《おろ》した。ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣《きづかい》はない。自然のありがたいところはここにある。いざとなると容赦《ようしゃ》も未練《みれん》もない代りには、人に因《よ》って取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。岩崎《いわさき》や三井《みつい》を眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今《ここん》帝王の権威を風馬牛《ふうばぎゅう》し得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の平等観《びょうどうかん》を無辺際《むへんさい》に樹立している。天下の羣小《ぐんしょう》を麾《さしまね》いで、いたずらにタイモンの憤《いきどお》りを招くよりは、蘭《らん》を九|※[#「田+宛」、第3水準1-88-43]《えん》に滋《ま》き、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24]《けい》を百|畦《けい》に樹《う》えて、独《ひと》りその裏《うち》に起臥《きが》する方が遥かに得策である。余は公平と云い無私《むし》と云う。さほど大事《だいじ》なものならば、日に千人の小賊《しょうぞく》を戮《りく》して、満圃《まんぽ》の草花を彼らの屍《しかばね》に培養《つちか》うがよかろう。
 何だか考《かんがえ》が理《り》に落ちていっこうつまらなくなった。こんな中学程度の観想《かんそう》を練りにわざわざ、鏡が池まで来はせぬ。袂《たもと》から煙草《たばこ》を出して、寸燐《マッチ》をシュッと擦《す》る。手応《てごたえ》はあったが火は見えない。敷島《しきしま》のさきに付けて吸ってみると、鼻から煙が出た。なるほど、吸ったんだなとようやく気がついた。寸燐《マッチ》は短かい草のなかで、しばらく雨竜《あまりょう》のような細い煙りを吐いて、すぐ寂滅《じゃくめつ》した。席をずらせてだんだん水際《みずぎわ》まで出て見る。余が茵は天然に池のなかに、ながれ込んで、足を浸《ひた》せば生温《なまぬる》い水につくかも知れぬと云う間際《まぎわ》で、とまる。水を覗《のぞ》いて見る。
 眼の届く所はさまで深そうにもない。底には細長い水草《みずぐさ》が、往生《おうじょう》して沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡の薄《すすき》なら靡《なび》く事を知っている。藻《も》の草ならば誘《さそ》う波の情《なさ》けを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調《ととの》えて、朝な夕なに、弄《なぶ》らるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代《いくよ》の思《おもい》を茎《くき》の先に籠《こ》めながら、今に至るまでついに動き得ずに、また死に切れずに、生きているらしい。
 余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。功徳《くどく》になると思ったから、眼の先へ、一つ抛《ほう》り込んでやる。ぶくぶくと泡《あわ》が二つ浮いて、すぐ消えた。すぐ消えた、すぐ消えたと、余は心のうちで繰り返す。すかして見ると、三茎《みくき》ほどの長い髪が、慵《ものうげ》に揺れかかっている。見つかってはと云わぬばかりに、濁った水が底の方から隠しに来る。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。
 今度は思い切って、懸命に真中《まんなか》へなげる。ぽかんと幽《かす》かに音がした。静かなるものは決して取り合わない。もう抛《な》げる気も無くなった。絵の具箱と帽子を置いたまま右手へ廻る。
 二間余りを爪先上《つまさきあ》がりに登る。頭の上には大きな樹《き》がかぶさって、身体《からだ》が急に寒くなる。向う岸の暗い所に椿《つばき》が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向《ひなた》で見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩角《いわかど》を、奥へ二三間|遠退《とおの》いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑《しんかん》として、かたまっている。その花が! 一日|勘定《かんじょう》しても無論勘定し切れぬほど多い。しかし眼がつけば是非勘定したくなるほど鮮《あざや》かである。ただ鮮かと云うばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪《と》られた、後《あと》は何だか凄《すご》くなる。あれほど人を欺《だま》す花はない。余は深山椿《みやまつばき》を見るたびにいつでも妖女《ようじょ》の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然《えんぜん》たる毒を血管に吹く。欺《あざむ》かれたと悟《さと》った頃はすでに遅い。向う側の椿が眼に入《い》った時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色はただの赤ではない。眼を醒《さま》すほどの派出《はで》やかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。悄然《しょうぜん》として萎《しお》れる雨中《うちゅう》の梨花《りか》には、ただ憐れな感じがする。冷やかに艶《えん》なる月下《げっか》の海棠《かいどう》には、ただ愛らしい気持ちがする。椿の沈んでいるのは全く違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味《み》を帯びた調子である。この調子を底に持って、上部《うわべ》はどこまでも派出に装《よそお》っている。しかも人に媚《こ》ぶる態《さま》もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜《せいそう》を、人目にかからぬ山陰に落ちつき払って暮らしている。ただ一眼《ひとめ》見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際《こんりんざい》、免《のが》るる事は出来ない。あの色はただの赤ではない。屠《ほふ》られたる囚人《しゅうじん》の血が、自《おの》ずから人の眼を惹《ひ》いて、自から人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。
 見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩《くず》れるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練《みれん》のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いている辺《あたり》は今でも少々赤いような気がする。また落ちた。地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。年々《ねんねん》落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶《と》け出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ間《ま》に、落ちた椿のために、埋《うず》もれて、元の平地《ひらち》に戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った、人魂《ひとだま》のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
 こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を呑《の》んで、ぼんやり考え込む。温泉場《ゆば》の御那美《おなみ》さんが昨日《きのう》冗談《じょうだん》に云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は大浪《おおなみ》にのる一枚の板子《いたご》のように揺れる。あの顔を種《たね》にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長《とこしな》えに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画《え》でかけるだろうか。かのラオコーンには――ラオコーンなどはどうでも構わない。原理に背《そむ》いても、背かなくっても、そう云う心持ちさえ出ればいい。しかし人間を離れないで人間以上の永久と云う感じを出すのは容易な事ではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情では駄目だ。苦痛が勝ってはすべてを打《う》ち壊《こ》わしてしまう。と云ってむやみに気楽ではなお困る。一層《いっそ》ほかの顔にしては、どうだろう。あれか、これかと指を折って見るが、どうも思《おもわ》しくない。やはり御那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、吾《われ》ながら不明である。したがって自己の想像でいい加減に作り易《か》える訳に行かない。あれに嫉※[#「女+戸」、第3水準1-15-76]《しっと》を加えたら、どうだろう。嫉※[#「女+戸」、第3水準1-15-76]では不安の感が多過ぎる。憎悪《ぞうお》はどうだろう。憎悪は烈《は》げし過ぎる。怒《いかり》? 怒では全然調和を破る。恨《うらみ》? 恨でも春恨《しゅんこん》とか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。多くある情緒《じょうしょ》のうちで、憐《あわ》れと云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情《じょう》で、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟《とっさ》の衝動で、この情があの女の眉宇《びう》にひらめいた瞬時に、わが画《え》は成就《じょうじゅ》するであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑《うすわらい》と、勝とう、勝とうと焦《あせ》る八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない。
 がさりがさりと足音がする。胸裏《きょうり》の図案は三|分《ぶ》二で崩《くず》れた。見ると、筒袖《つつそで》を着た男が、背《せ》へ薪《まき》を載《の》せて、熊笹《くまざさ》のなかを観海寺の方へわたってくる。隣りの山からおりて来たのだろう。
「よい御天気で」と手拭《てぬぐい》をとって挨拶《あいさつ》する。腰を屈《かが》める途端《とたん》に、三尺帯に落《おと》した鉈《なた》の刃《は》がぴかりと光った。四十|恰好《がっこう》の逞《たくま》しい男である。どこかで見たようだ。男は旧知のように馴々《なれなれ》しい。
「旦那《だんな》も画を御描《おか》きなさるか」余の絵の具箱は開《あ》けてあった。
「ああ。この池でも画《か》こうと思って来て見たが、淋《さみ》しい所だね。誰も通らない」
「はあい。まことに山の中で……旦那あ、峠《とうげ》で御降《おふ》られなさって、さぞ御困りでござんしたろ」
「え? うん御前《おまえ》はあの時の馬子《まご》さんだね」
「はあい。こうやって薪《たきぎ》を切っては城下《じょうか》へ持って出ます」と源兵衛は荷を卸《おろ》して、その上へ腰をかける。煙草入《たばこいれ》を出す。古いものだ。紙だか革《かわ》だか分らない。余は寸燐《マッチ》を借《か》してやる。
「あんな所を毎日越すなあ大変だね」
「なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。三日《みっか》に一|返《ぺん》、ことによると四日目《よっかめ》くらいになります」
「四日に一|返《ぺん》でも御免だ」
「アハハハハ。馬が不憫《ふびん》ですから四日目くらいにして置きます」
「そりゃあ、どうも。自分より馬の方が大事なんだね。ハハハハ」
「それほどでもないんで……」
「時にこの池はよほど古いもんだね。全体いつ頃からあるんだい」
「昔からありますよ」
「昔から? どのくらい昔から?」
「なんでもよっぽど古い昔から」
「よっぽど古い昔しからか。なるほど」
「なんでも昔し、志保田《しほだ》の嬢様が、身を投げた時分からありますよ」
「志保田って、あの温泉場《ゆば》のかい」
「はあい」
「御嬢さんが身を投げたって、現に達者でいるじゃないか」
「いんにえ。あの嬢さまじゃない。ずっと昔の嬢様が」
「ずっと昔の嬢様。いつ頃かね、それは」
「なんでも、よほど昔しの嬢様で……」
「その昔の嬢様が、どうしてまた身を投げたんだい」
「その嬢様は、やはり今の嬢様のように美しい嬢様であったそうながな、旦那様」
「うん」
「すると、ある日、一人《ひとり》の梵論字《ぼろんじ》が来て……」
「梵論字と云うと虚無僧《こもそう》の事かい」
「はあい。あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。その梵論字が志保田の庄屋《しょうや》へ逗留《とうりゅう》しているうちに、その美くしい嬢様が、その梵論字を見染《みそ》めて――因果《いんが》と申しますか、どうしてもいっしょになりたいと云うて、泣きました」
「泣きました。ふうん」
「ところが庄屋どのが、聞き入れません。梵論字は聟《むこ》にはならんと云うて。とうとう追い出しました」
「その虚無僧《こもそう》[#ルビの「こもそう」は底本では「こむそう」]をかい」
「はあい。そこで嬢様が、梵論字のあとを追うてここまで来て、――あの向うに見える松の所から、身を投げて、――とうとう、えらい騒ぎになりました。その時何でも一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ。それでこの池を今でも鏡が池と申しまする」
「へええ。じゃ、もう身を投げたものがあるんだね」
「まことに怪《け》しからん事でござんす」
「何代くらい前の事かい。それは」
「なんでもよっぽど昔の事でござんすそうな。それから――これはここ限りの話だが、旦那さん」
「何だい」
「あの志保田の家には、代々《だいだい》気狂《きちがい》が出来ます」
「へええ」
「全く祟《たた》りでござんす。今の嬢様も、近頃は少し変だ云うて、皆が囃《はや》します」
「ハハハハそんな事はなかろう」
「ござんせんかな。しかしあの御袋様《おふくろさま》がやはり少し変でな」
「うちにいるのかい」
「いいえ、去年|亡《な》くなりました」
「ふん」と余は煙草の吸殻《すいがら》から細い煙の立つのを見て、口を閉じた。源兵衛は薪《まき》を背《せ》にして去る。
 画《え》をかきに来て、こんな事を考えたり、こんな話しを聴くばかりでは、何日《いくにち》かかっても一枚も出来っこない。せっかく絵の具箱まで持ち出した以上、今日は義理にも下絵《したえ》をとって行こう。幸《さいわい》、向側の景色は、あれなりで略纏《ほぼまと》まっている。あすこでも申《もう》し訳《わけ》にちょっと描《か》こう。
 一丈余りの蒼黒《あおぐろ》い岩が、真直《まっすぐ》に池の底から突き出して、濃《こ》き水の折れ曲る角《かど》に、嵯々《ささ》と構える右側には、例の熊笹《くまざさ》が断崖《だんがい》の上から水際《みずぎわ》まで、一寸《いっすん》の隙間《すきま》なく叢生《そうせい》している。上には三抱《みかかえ》ほどの大きな松が、若蔦《わかづた》にからまれた幹を、斜《なな》めに捩《ねじ》って、半分以上水の面《おもて》へ乗り出している。鏡を懐《ふところ》にした女は、あの岩の上からでも飛んだものだろう。
 三脚几《さんきゃくき》に尻《しり》を据《す》えて、面画に入るべき材料を見渡す。松と、笹と、岩と水であるが、さて水はどこでとめてよいか分らぬ。岩の高さが一丈あれば、影も一丈ある。熊笹は、水際でとまらずに、水の中まで茂り込んでいるかと怪《あやし》まるるくらい、鮮《あざ》やかに水底まで写っている。松に至っては空に聳《そび》ゆる高さが、見上げらるるだけ、影もまたすこぶる細長い。眼に写っただけの寸法ではとうてい収《おさま》りがつかない。一層《いっそ》の事、実物をやめて影だけ描くのも一興だろう。水をかいて、水の中の影をかいて、そうして、これが画だと人に見せたら驚ろくだろう。しかしただ驚ろかせるだけではつまらない。なるほど画になっていると驚かせなければつまらない。どう工夫《くふう》をしたものだろうと、一心に池の面《おも》を見詰める。
 奇体なもので、影だけ眺《なが》めていてはいっこう画にならん。実物と見比べて工夫がして見たくなる。余は水面から眸《ひとみ》を転じて、そろりそろりと上の方へ視線を移して行く。一丈の巌《いわお》を、影の先から、水際の継目《つぎめ》まで眺めて、継目から次第に水の上に出る。潤沢《じゅんたく》の気合《けあい》から、皴皺《しゅんしゅ》の模様を逐一《ちくいち》吟味《ぎんみ》してだんだんと登って行く。ようやく登り詰めて、余の双眼《そうがん》が今|危巌《きがん》の頂《いただ》きに達したるとき、余は蛇《へび》に睨《にら》まれた蟇《ひき》のごとく、はたりと画筆《えふで》を取り落した。
 緑《みど》りの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩《いろ》どる中に、楚然《そぜん》として織り出されたる女の顔は、――花下《かか》に余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振袖《ふりそで》に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。
 余が視線は、蒼白《あおじろ》き女の顔の真中《まんなか》にぐさと釘付《くぎづ》けにされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯《たいく》を伸《の》せるだけ伸して、高い巌《いわお》の上に一指も動かさずに立っている。この一刹那《いっせつな》!
 余は覚えず飛び上った。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。夕日は樹梢《じゅしょう》を掠《かす》めて、幽《かす》かに松の幹を染むる。熊笹はいよいよ青い。
 また驚かされた。

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